俺の背中に火をつけろ

ドラマや映画、演劇、音楽、本、マンガなどまあいろいろ。こんなタイトルですが女です。

『重版出来』に見る、人生の「コンテンツ化」

※少し修正しました

ドラマ『重版出来』の評判がいい。

自分は原作は未読。ドラマもいろんな事情があってどうも正面から観るのが怖く、2〜3話あたりで周囲から聞こえてくるあまりの好評ぶりに、さすがにチェックしとくか…と観だした次第。

 

今週放送された7話は、一言で言えば「持つ者と持たざる者の物語」。絵は下手だが才能がある新人(アスペ気味)と、新人賞は獲ったものの連載を持てないまま20年経とうとしているアシスタントと。ここにいわゆる「消えた漫画家」と、その家族の物語が絡んでくる。

新人とアシの話は単なる両者の比較だけでなく、前者と後者が互いの救済となったとも解釈できるような作りになっていた。非常によく練られた、愛情あふれる脚本。昨今のドラマでは出色だと思う。

 

でもやはり、どこか苦く感じてしまうのだ。それはきっと自分の知人に実際の漫画家が数人いて、彼らのアシスタントもよく知っているからだろう。
まずあのドラマを観た人に誤解してほしくないのは、全ての漫画家アシスタントが「デビュー出来なかった人」ではない、ということ。いわゆる「プロアシ」と言われる人たちもたくさんいる。もしかしたら原作ではそのあたりも言及されているのかもしれないが。
ただ、新人アシに関して言うと、ほとんどがデビューを目指しているのではないだろうか。そしてアシ上がりでデビューするにはある程度の生活の安定と引き換えに「自身の作品を描く」ことに非常に気力を要することが多いようだ。アシ歴が長ければ長いほどデビューする率が少ない、デビューする人はさっさとアシを卒業していく…そんな話もよく聞く。だからムロツヨシ演じる“夢を諦めて田舎に帰る20年選手のアシ”は、現実問題すごくリアルな存在で。

ツイッターには「今回泣いた」という声が並ぶ。でも自分は泣けなかった。なぜならあの原作マンガが、話題になり、たくさん売れ、そしてドラマ化へとこぎつけた、いわば存在として「勝ち組」だからだ(今のところは)。作者の方の才能も、もちろん努力もあるのだろう。でもそんな「勝ち組」のコンテンツとして、「持たざる者、敗者」の人生が描かれる。否、物語として“消費”される。それは「いやー残酷だけれども、世の中ってそういうものだよね。他人事として観る分には面白いねえ」で済まされるものなのだろうか。

物語が“リアル”であればあるほど、“消費される側”のことがどうしても気になってしまうのは私だけだろうか。あのドラマをエンターテイメントとして楽しむ多数の視聴者の裏側で、「こんなこともあったね」で済ませることが出来ず、砂を噛むような思いをしている(そして実在している)“彼ら”が気になって仕方ないのだ。


そこにそこはかとなく、「“上から目線”の傲慢さ」を感じてしまうのは、自分が卑屈なのだろうか。そんなことを考えてしまうから、私は“泣けない”のだろう。